お金について
最近お金について考えることが多い。
お金は人類が生み出したシステムだ。
貨幣経済があることによって、人間はさまざまな職業につけるようになった。
物々交換では、相手がほしいものを持っていないと交換できないからだ。
お金という共通の仲介役をもって、職業を分岐させて、専門化し、一つのものしか持っていなくても取引が可能になった。
芸術家なんかも活動しやすくなった。
人類の発展に大きく寄与したことは間違いない。
しかし、あくまでお金は仕組みで道具だ。
貨幣経済がすばらしかったとしても、お金はえらくない。
お金そのものに価値はなく、人類が生み出した概念の産物だ。
概念だからこそ、信用が大切なのはわかるけれど。
お金がだめなわけでもない。
これだけ貨幣経済が広がっているように、取引をするのにこれほど便利なものもない。
だからお金を嫌ってもいけない。この仕組みは人々を便利にするために生まれたのだから。
私はお金をぜんぜん持っていないけれど、お金は悪くないと思う。
他の多くのものと同じように、人間がどう使うかしだい。
私たちは豊かになりたい。幸せになりたい。
だから利益追求をするし、そのために組織を作ったり働いてお金をやり取りする。
この仕組みをどう使うか。
この100円はどう使うのか。
そう考えて、私はこう使う。
お金に意思を乗せることはできないか。
もっと拡大して、気持ちを表す手段にできるはずだ。
実は昔からその使い方はあったし、今も続いている。
それをもっともっと拡大したい。
お互いに気持ちを表して使い、
お金に対して恐れず、偉ぶらず、大げさにならずに。
ただ自分の意思の表現として。
そんな使い方で相互に関係し合っていければ、もっと豊かにならないか。
もちろん。いままでの形の労働も、新しい形も、一見働いてないように見えるものも。
意思としての使い方が広がれば、働くの意味の中から「はたらき」にお金が集まるということも起こると思う。
クラウドファンディングや、本来の意味でのお坊さんへの布施はその一例だと思う。
その人との関係やその人の存在がもたらす作用に対して、尊さやありがたさ、同意や賞賛、活動への応援とか、そういった気持ちを表すものとして。
存在がもたらす作用だから、もうそれが労働かは今の価値観では量れない。
労働でなくても良いと思う。
もちろん、今の価値観で労働といえるものも変わらず敬意をもって尊重していく。それがなくっちゃ世の中は回らない。尊敬すべきものとして。
そんな経済のまわし方、お金の使い方もらい方のできる社会が実現してほしい。
このブログは
単に日々の考えを言語化しようというものです。
壮大かつ尊大になる癖があります。